統一地方選挙後半戦が盛り上がりを見せる中、中核市である大阪は高槻市の市議会議員を目指して戦う『吉田きんじ』候補にインタビューを敢行。
吉田きんじとは何者か、なぜ市議会議員を目指すのかを深く掘り下げ8000字以上のインタビューになりました。インタビューから見えてくるのは高槻市だけじゃない日本が抱える課題。そして、高槻市で生まれ育ち、高槻市のために行動し続けてきた吉田きんじのアツい想いをお届けします。

ーー「きんちゃん」をこれから知る人に向けて、どんな人なのかということを代弁者として色々と聞いていきたいと思っています。早速なんですが、フルネームを教えてください。
吉田氏(以下、吉田) 吉田きんじです
ーー「きんちゃん」という愛称は名前の「きんじ」からきているんですか?
吉田 そうですね、金メダルの「金」ではなく「錦(にしき)」。「錦」を「司る」で「錦司(きんじ)」です。自分なりにめちゃめちゃ気に入っている名前なので、親にはありがたいなと思ってますね。
ーー「きんちゃん」と呼ばれ始めたのはいつ頃からなんですか?
吉田 物心ついた時からです。あだ名、きんちゃんとしか呼びようがないでしょ。吉田きんじで「よっちゃん」とかないでしょ(笑)「よしくん」もないやろね。だからやっぱり、社会人になってからも上司に「きんちゃん」って呼ばれてたね。「吉田」とかじゃなくて。
ーー現在の年齢と、誕生日を教えてください。
吉田 1979年6月27日生まれの、43歳です。
ーー血液型も教えてください。
吉田 O型!でも25歳まではA型だと思っていたんですよ。両親は共にA型なんですけど、「俺って何型?」って聞いたら「あんたお父さんもお母さんもA型やから、A型やわ」と言われてずっとA型だと思っていたんです。
25歳の時にちょうど職場に献血車が来まして、職場の先輩に献血行こうって言われて。基本注射は大嫌いなんですけど、先輩に言われるがままに行ったら、その時初めて「あなたはO型です」って言われて。「ええー」言うてね、その日に帰ってお母さんに「俺ほんまにおかんの子供か?O型らしいぞ」って。でもよくよく調べたら、A型とA型からO型も生まれるらしいです。
ーーそんな「きんちゃん」、小学校のときはどんな小学生でしたか?
吉田 周りにおった友達がどう言うかはさておき、悪ガキやったね。外で活発に遊んでた。当時は今みたいな環境じゃないじゃないですか。ゲームももちろんあんまりなかったですけど、基本は外で野球をやったり、自転車に乗って暴れまくったりしてました。
友達と田んぼでドロドロになりながら遊んだりね。うん、そんな時代やったね。常に靴下に穴が空いている感じ(笑)
ーースポーツとかはしていたんですか?
吉田 小学校のときは野球やね。チームに入るとかではなくて、みんなで遊ぶ野球をやっていました。グラウンドに集まって「野球なー!」言うてみんなでやっていた感じやね。
中学生になってからは部活で野球を続けて、僕はセンターでした。うちのチームはエースピッチャーがとんでもない才能の持ち主だったから、中学校の野球部は楽しかったね。強かったし。高槻大会で優勝したし、最後の大会は大阪府内のベスト8まで行ったかな。
ーー野球部に入っていた中学時代の「きんちゃん」はどんな生徒でしたか?
吉田 そのままやね、変わらへん。
ーー高校生の「きんちゃん」は?
吉田 野球の最後の大会が終わって、中学3年の後半くらいから、ギターを弾き出して音楽にちょっと目覚めたかな。で、高校3年間は音楽!とにかくバンドに明け暮れていましたね。
当時の僕が音楽をやりたいって思ったきっかけのアーティストは、邦楽で言ったらMr.Childrenさん。ベタやけど、大好きでしたね。カバーコピーをやっていました。洋楽やったらOasis。好きやったなあ、UKロック。もうなんか、リアム・ギャラガーがかっこよかったんですよ。
ーー選挙が終わるまで、邦楽1曲しか聞けないとしたら?

吉田 邦楽?難しいなあ。自分の選挙のテーマソングにするとしたら、門松良祐くんの「逢いに行かなくちゃ。」って言う歌。(決起集会で)歌ってくれてた曲です。自分で勝手にですけど、その曲をテーマソングにしています。
ーー決起集会は大盛況でしたね。

吉田 ありがたいことに、いろんな人がいろんな人を呼んでくれました。良い決起集会をさせてもらったね。
ーーキッズエリアがあったのが好評だったそうで。
吉田 そうなんですよね。今回、僕自身が市議会選で「子ども第一宣言」というテーマを掲げていて、子どものことを中心とした政治をやっていきたいと思っているんです。だから、決起集会に来てくれた人は子育て世代や若い世代が多いんです。そのことを考えるとキッズスペースはマストやと思いますね。
当たり前のように子供を置いて誰かに見てもらうのではなく、子供と一緒に参加してもらうっていうのがやっぱり大事なんじゃないかな。
ーー子どもが泣いたら迷惑かけるかな、とか気にしなくてもいいんですね。
吉田 そうそうそうそう、子供らは泣くのが仕事やし。それも含めて、社会が認め合うような、子供たちに優しい街づくりがしたいですよね。
ーーさて、高校卒業後の「きんちゃん」はどんなことをしていたんですか?
吉田 高校を卒業してからも音楽をずっとやっていたので、音楽の専門学校に行かせてもらいました。そのときはプロのミュージシャンになりたいと思って、2年間行かせてもらいましたね。

ーー2 年間の専門学校生活を経て、卒業後は?
吉田 思いのほか、音楽の道はすぐに諦めましたね。やっぱり上には上がいるというのを専門学校でも思い知りましたし、才能のなさも感じましたし。そっからは21歳の時かな、いろんなご縁があって、高槻市役所で働くようになりました。
ーーなるほど。高槻市役所ではどんなお仕事をしていたんですか?
吉田 働かせていただいていたのが、市営葬儀をする課で。公務ではなかなか珍しい内容だと思いますが、役所の人間がお葬儀をするという課にずっといました。
ーー葬儀課にはどんなお仕事があるんですか?
吉田 毎日のようにお葬式がありました。それくらい市営葬儀は高槻市民の方にたくさん利用してもらってまして。亡くなられた市民の故人さんを納棺させてもらって、その後お葬儀の司会をして、それで火葬場まで送り出すというところが一連の流れでしたね。16年ずっと働いていました。
ーー2018年に市役所を退職されたとのことで、どれぐらい前から出馬への覚悟を決めていたんですか?
吉田 そうですね、私にとって高槻市議会議員になるというのは手段の1つでしかないと思っているんです。先ほども葬儀課にいたとお話ししましたが、私にはそこで働く中で見えてきたものがありまして。社会が、地域のコミュニティが、どんどん崩壊していく現状を見てきたんです。
特に独居の高齢者の方々が孤独死していく姿を、仕事をしながらずっと見てきました。連絡を受けて亡くなられた方を迎えに行かせてもらったら、家のポストに新聞紙やら広告がいっぱい詰まっているにも関わらず、地域の人たちは何も知らん顔みたいな感じ。さみしい地域社会を働きながらずっと見てきたんです。
もっと早く地域コミュニティがしっかりしていたら、おじいちゃんおばあちゃんがこんな姿にならなかったのに。「最近あのおじいちゃん見ないね、おばあちゃん見ないね」と地域がもっと早く見つけられたのに、と。そういったことを感じながらずっと市役所で働いてきまして。それで実際に自分の育った地域もどうかなと見つめ直したときに、やっぱりどんどん核家族化して地域コミュニティが崩壊していっていたんです。
「これはなんとかしないと」という思いが強かったですね。
ーー市役所職員という立場ではできないことも多かったんですか?
吉田 「どこまで本当にやるか」というところだと思うんです。先ほどの話の続きになるんですけれども、自分の地域のコミュニティを見ていく中でも、やっぱり「このままじゃあかん」と思ったんですよ。それで市役所で働くかたわら、地域が繋がり支え合えるような街づくりをしたいと思って、2010年にボランティア団体を立ち上げました。
僕らの仲間の内々で作った団体なんですけれども、私含めひつじ年生まれが集まったので「未会(ひつじかい)」という名前をつけまして。
その「未会」でまず何ができるかと考えたときに、自分たちが子どものころ、地域のおっちゃんやおばちゃんたちに育ててきてもらったことを思い出したんです。じゃあ次は自分たちがこれからの子どもたちを見守っていく活動をしていこうじゃないかということで始めたのが、「現代版寺子屋」といいまして。学校でも家庭でもない第3の居場所として、 実際のお寺をお借りして子どもたちの学習支援や食事支援を始めました。

ーー「現代版寺子屋」を実際に始めたのはいつですか?
吉田 今から8年前くらいです。活動すればするほど、子どもたちへの課題が少しずつ見えてきました。その寺子屋では、生活困窮の子どもたちだけではなくて、いろんな子どもたちが気軽に居場所づくりをしたかったんです。
実際に家でひとりぼっちの子もいれば、不登校で学校に行けていない子、ちゃんとした食事が取れていない子がいました。また、ひとり親世帯を理由に将来を諦めている子もいたんですよね。特に「どうせ俺なんか」「私なんか」という言葉を聞くようになったのが、立候補の大きなきっかけのひとつになりました。
そのとき、いち行政マンやいちボランティアの代表としてできることの限界を感じたので、これは現場の声を市議会に届けなければいけないと思ったんです。その手段のひとつとして高槻市役所を辞めて、市議会議員に挑戦しました。
ーーそのボランティア団体は、「きんちゃん」が発起人なんですか?
吉田 はい、最初に言うたのは僕です。実は、我々の大事な仲間が亡くなったというのも団体を立ち上げたきっかけのひとつで。自ら命を絶った仲間が当時いたんです。僕は小学校の頃から仲間意識が高くて、仲間を大切にしてきたんですけど、その仲間が亡くなった時に市役所の仕事で市営葬儀をしたんですね。亡くなった仲間の彼女がそのとき最後に私に言ってくれたのが「相談できる友達がおらんかった」ということだったんです。それが自分の中ですっごい心残りで。これだけ「仲間仲間」って言ってたくせに、相談もしてもらえないくらいの関係やったんか、とすごく落ち込みまして。
いつでもみんなで集まって話し合える、いつでも何かしんどいことを言い合えるような会を作った方がええんちゃうかなというのもボランティア団体を立ち上げたきっかけのひとつでしたね。
ーーそんな「現代版寺子屋」の規模や内容を教えてください。
吉田 まずは自分の育った地域で始めました。お寺さんに「子どもたちの居場所づくりをしたい」と相談しに行ったんです。
昔から寺子屋ってあったじゃないですか。「現代版寺子屋」に対しても、「なぜ寺なん?」ってよく聞かれるんですよ。まず、私は葬儀の仕事もしてたので、もともとお寺さんとの関係がありました。それから、施設や地域の公民館で始めるとなると、いざ子どもたちに何かあったときに気軽に行けないじゃないですか。鍵もあいていないから、自分が困った時に行けないかもしれないですよね。
しかしお寺には何百年もの歴史があって、常に住職や坊守さんが居てくれます。「駆け込み寺」ではないですけど、なにかあったときに寺に行けば誰かがいてくれるという安心感を、子どもたちに持ってほしかったんです。これが、寺で「現代版寺子屋」を始めた理由ですね。やっぱりずっとどの地域にもお寺があったわけですから、そこでやらないと意味がないなと思ったんです。
ーー「現代版寺子屋」の活動は週に1度と聞いたのですが、どれくらいの子どもたちが集まるんですか?
吉田 「現代版寺子屋」を始めた当時は地元の1か所でしたが、今では高槻市内5か所でやっています。
毎週月曜日は下田部(しもたなべ)地域、毎週火曜日は安満(あま)地域でやっています。毎週水曜日は東天川(ひがしあまかわ)地域、毎週木曜日は僕の地元である春日(かすが)でやっています。毎週金曜日は柱本(はしらもと)団地の一室を使わせていただいてやっていますね。
僕の地元の春日での参加人数が一番多いんですけれども、5か所で合計したら100人弱くらい集まってきます。忙しいけど、毎日子どもたちに会えるのが楽しみやからね。
ーー「現代版寺子屋」はどんなことをしているんですか?
吉田 活動は18時から20時なので、18時に集まってきたらまずは19時まで宿題です。宿題をやってきていたら自学。19時から19時半までは自由に遊ぶ時間です。19時半から20時まではみんなでパンやお菓子を食べています。
「現代版寺子屋」は5か所でやっているので地域によってルールもバラバラなんですが、基本的なルールはそれぞれの子どもたちみんなで決めてもらっています。携帯やジュースを持ち込んでも良いのか悪いのかとかね。自分たちで決めたことだから自分たちで守らなければあかんから、できてない子がおったらみんなで注意したりもしますし。
ーー「現代版寺子屋」はここまで拡大する計画だったんですか?
吉田 まずは自分の地域でやっていくのでいっぱいいっぱいだったんですけど、活動する中で「うちの地域でもやってほしい」という声も上がってきて。それで広がっていったという感じですね。もちろん僕の身体はひとつしかないので、なにからなにまで全部自分でできるのかといったら、そうではありません。ボランティア団体の「未会」もそうですし、運営に欠かせないのが大学生ボランティアの協力ですね。
ーー大学生にも協力してもらっているんですね。
吉田 そうです。毎週のように大学生たちが各地域にボランティアで来てくれて、子どもたちに勉強を教えてくれたり、一緒になって遊んでくれたりしています。
ーー「これからの子どもたちを見守っていこう」と、思い描いていた状況が実現しているんじゃないですか?
吉田 そうですね。私たちみたいな大人のおっちゃんらの目線と、大学生たちみたいなお兄ちゃんお姉ちゃんの目線という両方の目線で、子どもたちを見守ることができている感じがします。
ーーこれからの「現代版寺子屋」はどうしていくのでしょうか。
吉田 もちろん選挙が終わってからも、当たり前のように寺子屋の活動はやっていきます。できることならば、高槻市内全域の中学校区を含めて小学校区全てに、学校でもない家庭でもない第3の居場所があればいいなと思っています。
ただ全校区となると難しいので、地域地域のNPO、ボランティア団体や地域のおっちゃんおばちゃんに協力してもらいたいです。そして、そうした方たちのサポートを行政がやっぱりしていかないといけない、というのは強く思っているんですよ。
中学校、小学校の校区に必ずひとつは子どもたちのよりどころがあったら絶対にいいというのは、自分がやっているからこそ分かることでもあります。

ーー市役所を退職してから初めての選挙では惜しくも当選ならずでしたよね。当落の知らせを聞いたときは、どんな心境でしたか?
吉田 自分がやってきたことが間違っていたんかな、というのはちょっと感じましたね。僕は手段のひとつとして市役所を辞めて挑戦していたので、一気に崖から突き落とされたような気持ちでしたね、今振り返ると。
ーー「きんちゃん」にとって大きな挫折だったんですね。
吉田 そうやね、うん。公務員を辞めているのでもちろん無職になりますし、正直な話、明日からの生活もどうしようかなっていうのもありましたし。
ーーどれぐらいの票が「きんちゃん」に集まったんですか?
吉田 1,628人の方が投票用紙に「吉田きんじ」と書いてくれたんです。そのこと自体はすごく嬉しくて、その方々にも申し訳ないなというのもありました。
ーー負けた後の1年目はどんな気持ちでしたか?
吉田 地獄でしたね。今、思い出したくもないけど、しんどかったなというイメージしかないですね。人に会うのがきつかったし、かといって次の1歩を踏み出すのもしんどかった。それでも手を差し伸べてくれる方々がたくさんいて、「次も頑張れ」といろんな人に支えてもらって今があるんです。
負けた次の日かな、寺子屋の子供たちに言われた言葉が今でも忘れられないんですよ。「きんちゃんの良さを大人は誰もわかってない」っていうあの言葉。今でも忘れないですね。「また頑張ったらええやん」って言ってくれて嬉しかったね、本当に。
ーーはじめの出馬で落選して諦める人もいる中、また立ち上がったのはどうしてなのでしょうか?
吉田 自分にとって、やるべきことは変わらないじゃないですか。目の前にはずっと子どもたちがいるので、とにかく「子どもたちの支援を続ける」と。そんな思いの方が強かったですね。
ーー「現代版寺子屋」の活動も止めなかったんですね。
吉田 止めないですね、政治の方に進んだのは手段のひとつでしかなかったので。そこからですね、市内5か所で「現代版寺子屋」がどんどん増えていったんは。選挙で落ちてからですよ。子どもたちの支援をやることは 落ちようが落ちまいが変わらない。
ーーそうだったんですね。選挙に再挑戦しようと思い立ったのはいつですか?
吉田 第3の居場所作りが増えていけば増えていくほど、やっぱり地域や子どもたちの課題は見えてきます。そうすると暮らしの先には政治が必要やなって感じ出してきたんです。「もう一回自分は頑張らなあかん」って。
ーー4年前の「きんちゃん」と、今の「きんちゃん」の違うところは?
吉田 寄り添ってきた子どもの数が4年前とは圧倒的に違います。子どもたちから得たパワーが全然違いますよね、4年前とは。だから「この子らのためにやるぞ」っていう気持ちもより大きくなりましたよ。
ーー「きんちゃん」には、「自分の私財と時間を使って子どもたちを支援する、現場主義な候補者」というイメージがあります。
吉田 うーん。「現場主義」は合ってんちゃいます?自分の中では誰より子どもに寄り添ってきたと自負してます。自分の時間を子どもたちのために使ってきたのはもちろんなんですが、支援の面ではたくさんいろんな人が助けてくれています。
もちろん私一人ではできないことですので、応援してくれる方々がいっぱい支えてくれて この活動が成り立っているのだと、やっていてつくづく思いますね。

ーー「きんちゃん」が掲げる政策を教えてください。
吉田 前回もそうだったんですけども、今回は特にキャッチフレーズに「子ども第一宣言」を掲げています。基本的には子ども第一優先の政治をしていきたというのが、今回の自分の争点のひとつになりますよね。
政策はホームページに細かく書いてあるので見ていただきたいんですけれども、よく言われるのが「子どものことだけなのか」ということです。高齢者の方からも応援していただいているのですが、障がいを持った方など福祉の面も含めて、「子ども以外は蔑ろにしているんちゃうか」って。でも、それは全く違います。
私も元行政マンですから、教育・医療・福祉は絶対に大事にしていかないとあかんというのが自分の根底にあります。でもまずは、子どもたちの政策。こうすることによって、安心して暮らせる街づくりが必ずできます。
子どもたちのための政策をすれば、自ずと人口が増えます。人口が増えれば、街が賑わってきます。街が賑わってくれば、税収が増えて財源が増える。そうなればもっとまたいろんな政策ができる。だからこそまずは、子ども第一の政策を進めていきたいんです。
子どもたちが笑顔で優しい街ができれば、我々や高齢者も含め、高槻市民皆さんにとっての優しい街づくりができるということをやっぱり訴えていきたいですね。
ーー全体を変えていくということなんですね。
吉田 私もこの4年間の中で、子どもに関わる活動だけをしていたわけではないんです。仕事面で言いますと、実は高齢者の施設で働かせてもらったり、障がいを持った方々のグループホームでも働かせてもらったりしていました。現場がどうなっているのかをしっかり4年間勉強させてもらったので、決して蔑ろにしているわけではありません。
ーーなるほど。具体的な政策提言を教えてください。
吉田 まずは子どもの医療費の無料化と小学校給食の無償化、そして児童手当の拡充。まずはこの3つですね。議会で直ちに形にしていきたいです。
ーー「きんちゃん」の政策提言は実現できると思いますか?
吉田 私の中では実現できると思いますね。国ベースでもこの4月から「子ども家庭庁」ができて、児童手当の問題も注目されています。国が児童手当のことをしてくれるのであれば、ひとつの自治体としてもっともっと子どもたちを手厚く支援していけます。
それも含めて、高槻市が一丸となって子どもたちに対する支援や政策を進めていくことを私はやっていきたい。子育て世代のお父さんお母さんたちにも、「子育てするならやっぱり高槻だな」と言ってもらえるような高槻市にしたいです。お父さんお母さんたちが、安心して2人目3人目の子どもを生んでいけるような環境づくりを進めて行かなければいけないと思っています。
若い子たちに対しても、やはり雇用の問題も含めてしっかり働いて生活できる環境づくりもやっていかないと全てに繋がらないですからね。
ーー最後に皆さんにメッセージをお願いします。
吉田 私自身、もともと市役所で働いていましたし、暮らしの先には政治があり、暮らしのそばには行政があるというのをずっと実感してきました。そのために、まずは子どもたちの未来のために、そしてこの高槻市の未来のために、全力で働かせていただきたいです。皆さまよりお力添えをいただけると、大変ありがたいです。
ーー高槻市議会議員選挙の投票日はいつでしょうか?
吉田 2023年4月23日日曜日です。
期日前投票もありますので もちろん私に1票入れていただきたいんですけれども、まずは皆さんに投票に行っていただいて、自分の意思を票に出していただきたいですね。
皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。
インタビュー中は終始笑顔で受けごたえしてくれていた吉田きんじ。時折疲れた表情を見せつつも、子どもたちのために市議会に現場の声を届けたいという熱い想いが彼を突き動かす原動力なのだということを実感できた。
兵庫県明石市も子どもを大切にする政策によって、街全体が息を吹き返したように様変わりした。高槻市だけではなく、日本中が、今その転換点を迎えている。その転換点を各市町村が打つことができるのかどうかが、この統一地方選挙後半戦で決まる答えなのかもしれない。
吉田きんじはいう「子どもを誰一人としてひとりぼっちになんかさせません」。当たり前かもしれない、でも誰も実行してこなかった、そのせいで今の状況がある。そんなことを痛感させられる。こんなストレートな言葉を語る市議に高槻の未来を託すべきだと思う。吉田きんじが市議になるということは未来の高槻市を輝かせるということだから。
今回のインタビュー内容は吉田きんじのYouTubeチャンネルでも動画として公開されています。ぜひご覧ください。