「80年代、それは大林と相米の時代」。映画監督論、大林宣彦、相米慎二編

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1985年12月、東宝は正月映画として『姉妹坂』と『雪の断章─情熱─』の2作品を同時上映した。例年、正月映画では各映画会社が、興行的に目玉となる娯楽作を競い合う。だがこの2作品は娯楽作と呼ぶにはいささかアクが強すぎた。

「ひとつの、映画。それは、いつも愛の想いで過剰となり。ひとのこころを乱す」といった文章に、桜の花びらが舞う叙情的なタイトルで幕を開ける『姉妹坂』。冒頭、クレーンがセット内を縦横無尽に移動し、主人公の幼少期を約14分ワンカットの長回しでひとつかみに点描する『雪の断章─情熱─』。

2つの作品は東映の正月映画『ビー・バップ・ハイスクール』や、松竹の『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』に興行面では惨敗したが、何の気なしに劇場へ足を運んだような観客に、きっと強烈な印象を与えたに違いない。なんだ、この独特の世界は、と。『姉妹坂』は大林宣彦、『雪の断章─情熱─』は相米慎二の監督作である。

80年代の日本映画は大きな変革期にあった。日本の映画産業は50年代に全盛を迎えたものの、テレビの普及やスタジオシステムの衰退を背景に縮小し、新たな生き残りの道を模索していた。そんな中、勢力を伸張したのが角川書店だ。自社の書籍を映画化し、大量のテレビCMとともに売り込むメディアミックスの手法は、一躍、角川を映画界の中心的存在にした。

そして70年代半ばに映画製作をスタートさせた角川は、80年代に入り、独自のアイドル映画路線を確立した。そこで商業性だけでなく、作家性を併せ持つ傑作を作り上げたのが、スタジオシステムが瓦解する中から頭角を現した大林と相米だった。

商業的なアイドル映画に
彼らは作家性を注いだ

48年生まれの相米は日活での助監督生活を経てフリーになり、80年に監督デビューした。その初監督作が、『野性の証明』で映画デビューを飾った角川映画の秘蔵っ子、薬師丸ひろ子の初主演作『翔んだカップル』だった。

相米はこのほろ苦い青春劇で、後に彼の代名詞となる長回しの手法を既に用いている。彼は薬師丸や鶴見辰吾といった10代半ばの俳優たちを相手に、リハーサルを繰り返し、何度もテイクを重ね、ワンシーンワンカットでじっくりとその芝居をカメラに収めた。そしてこの作品の好評を受け、翌81年に再び薬師丸の主演作に取り組んだのが角川映画の一作、『セーラー服と機関銃』だ。

女子高生が突然、弱小暴力団の組長になる。そんな非日常のストーリーに、相米は主人公の女子高生や、彼女を取り巻く組員たちの生々しい感情を乗せ、ほかに似たもののない青春劇を撮り上げた。

相米慎二 監督作品『セーラー服と機関銃』
『セーラー服と機関銃』は薬師丸が歌う主題歌も大ヒットを記録。彼女の人気を不動のものにした。©KADOKAWA 1981

「相米さんの場合、朝9時から夜中の12時までリハーサルが続き、その間、同じことをしてはいけないと言われます。(中略)何も考えられなくなるまで集中しろということなんですね」(『シネアスト 相米慎二』より)

薬師丸は彼の演出を振り返っている。
「(注・相米の演出は)セリフを上滑りで言うのではなく、とにかく自分の肉体と切り離せなくなるくらいまでやらせることによって、非日常を現実に体得するまで、そう見えるまで、追い詰めていました」(同前)

相米は役者たちを追い詰め、役者たちから自発的に何かが生まれるのを待ち、生まれたと見るやそれをワンカットの長回しで丸ごとすくい取った。彼は言う。「そういう時、物語の登場人物としてではなく、役者という人間、そのものの生理ですとか、時間が現れる」(同前)

『セーラー服と機関銃』は81年12月に公開されると、配給収入23億円を稼ぎ、翌82年の日本映画でナンバーワンのヒット作となった。それは外見上は、人気絶頂の女優が出演するアイドル映画だったが、内実はいっさいの妥協を許さない、厳格な作家主義を突き通した映画だった。

映画監督 相米慎二
映画監督 相米慎二

Key film

『セーラー服と機関銃』
原作は赤川次郎。荒唐無稽な物語を、最後までユーモアを忘れず、それでいてシリアスな感情を交えて映像化した。薬師丸ひろ子が敵対する組織に乗り込み、機関銃を掃射する「カ・イ・カ・ン」のシーンはあまりにも有名だが、今観てもみずみずしく、なんら古びていないことに驚く。黒沢清が助監督として参加している。’81日。

『台風クラブ』
相米作品の頂点をなす傑作。台風の一夜を舞台に、中学生の男女が抱える鬱屈、倦怠、迷い、憤りを、硬軟自在な演出でフィルムに刻み付けた。歌謡曲を印象的に用いるのも彼の手法の一つだが、本作ではBARBEE BOYSの楽曲がフィーチャーされ、わらべの「もしも明日が…。」を雨中の少女たち少年たちが服を脱ぎ歌う。鮮烈。’85日。

片や同じように、アイドル映画の装いのもと、そこに実験的で叙情的な作家性を大胆に注ぎ込んだのが、83年の大林監督作『時をかける少女』である。

38年生まれの大林は学生時代から実験精神に富む自主映画を製作し、60年代以降はCMディレクターの先駆けとして、視聴者の感性に訴えるCMを手がけた。77年に監督した初の劇場用作品『HOUSE/ハウス』は、そんな彼の前衛性と映像感覚が前面に出た斬新なホラー作品だ。また薬師丸が主演した81年の角川映画『ねらわれた学園』も、この『HOUSE/ハウス』の幻想的な世界観を踏襲したSF青春劇だった。

大林宣彦 監督作品『時をかける少女』
『時をかける少女』は大林が実写化して以降、何度もリメイクされ、SF恋愛劇の古典となった。©KADOKAWA 1983

だがこれらの映画は、一部の熱狂を生みはしたものの、他方では「こんなものは映画じゃない」と酷評された。そのような状況下で大林は、故郷の広島・尾道を舞台にした青春映画の製作に着手し、郷愁と淡い叙情を帯びた82年の『転校生』で高い評価を得ることになる。彼にとって、この作品の成功から得たものは大きかった。

「いちばんパーソナル(個人的)につくったはずの映画が、大勢のファンに愛される。やっぱり映画というものは、自分にとっていちばんいとおしいことをいとおしく大切につくることが、結果的にいい商品になるんだなと」(大林宣彦『ぼくの映画人生』より)

そのうえで彼のこの思いが、次作『時をかける少女』に繋がっていく。角川三人娘の一人、原田知世のために尾道で映画を撮ってほしい。角川映画からそう依頼された大林は、15歳だった彼女に恋するような気持ちで、極めてパーソナルな映画を撮ろうとした。

時間を跳躍する能力を持った女子高生の、恋の冒険を描くこの『時をかける少女』には、おそらくその年齢の、その一瞬にしか持ち得なかった原田の少女性が、激しい切なさや寂しさの感覚とともに封じ込められている。さまざまな実験的手法に彩られながら。

『時をかける少女』は83年7月に公開され、配給収入28億円を記録し、83年の興行ランキングで日本映画の2位につけた。また大林と相米は80年代を通して精力的に活動し、多くの優れた作品を生んだことから、80年代を大林と相米の時代と呼ぶような向きもある。

2020年代に突入した今となっては、これだけの作家性を大ヒットする娯楽作の中に見ることは難しい。けれども大林と相米の影響は、現役で活躍する大勢の監督や俳優たちの中に、今なお強く残されている。
相米は01年に逝去。大林は20年4月に亡くなったが、その遺志をなんらかの形でも継ぐ者がいる限り、彼らの魂はきっと死なない。

映画監督 大林宣彦
映画監督 大林宣彦

Key film

『時をかける少女』
1982年『転校生』、85年『さびしんぼう』とともに“尾道三部作”と称されるが、実際に尾道で撮影された場面はわずか。原田知世が主題歌「時をかける少女」を歌うエンドロールには、劇中とはまた異なる原田の素の魅力が記録され、中には本編以上にこれを愛好する者もいる。筒井康隆の原作を技巧を凝らして映像化した。’83日。

『異人たちとの夏』
妻子と別れ、一人暮らしの日々を送る脚本家はある日、幼い頃に死別した父母とそっくりな男女に出会う。観る人の郷愁を強く喚起し、涙を誘う「下町パート」と、同じマンションに住む女との奇妙な逢瀬を描く「都会パート」の構成で、それぞれの幽霊譚が展開される。この叙情と実験性こそ大林節。原作は山田太一による小説。’88日。