中川諒「赤恥研究所」#9:未恥との遭遇

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『未恥との遭遇』

中川諒「赤恥研究所」#9:未恥との遭遇

わたしはその夜、座敷のある小さな居酒屋で友人たちと飲み食いをしていた。1杯、2杯とお酒が進むうちに尿意を催し、わたしはお店の奥にあるお手洗いに向かった。男女兼用の、いかにも古そうなトイレの扉に手を伸ばした。

ガチャ。

「きゃっ!!」

扉を開けたと同時に、トイレの中から女性の声が聞こえた。目に飛び込んできたのは和式トイレに浮かぶ、どっしりとしたお尻だった。「す、すいませーん!」。わたしは急いで扉を閉めた。やってしまった。見てはいけないものを見てしまった。しかし焦りが勝って、咄嗟に謝ったものの、はて……これはわたしが悪かったのだろうか?

ベニヤ板を打ちつけただけのような簡易な扉には、中に人がいるかどうか窺い知れない。そして鍵は確実に空いていた。鍵を閉めずにいた相手にも非があるのではないか。確かにノックをせずに開けてしまったわたしも悪い。一種の事故だという視点で見るとどちらにも非があるはずだ。見ず知らずの男性にお尻を見られた相手はもちろん、恥ずかしかっただろう。しかし、こちらも見ず知らずのお尻を突然見せられて恥ずかしい思いをしているのだ。

締まった扉の前で、そんなことを考えていたのも束の間。このあと起こることに気づいて、わたしは困惑した。相手はこの扉から出てくるのだ。何よりわたしはトイレに行きたい。どうしよう?相手が出てくるのを扉の前で堂々と待って相手を迎え撃つべきか。しかし「顔を見てやろう」と意気込む変態野郎だと思われても恥ずかしい。一度友人たちのいる席に戻って、誰が見たか分からないようにカムフラージュするか。この「事故」が起こったからといって、お店を離れるわけにもいかない。相手の姿がしっかり見えるこの小さな店で、しばらく時間を共にしなければいけないのだ。どちらを選んでも恥ずかしさは残る。そんなことを考えていると、扉が空いた。

ガチャ。

「すみませんでした」(女性)
「すみませんでした」(わたし)

どちらも恥ずかしい事故に巻き込まれたときは、素直に謝るのが一番だ。どちらも恥加害者であり、恥被害者なのだ。