草間彌生の名言「…の輝きを見てほしい。」【本と名言365】

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May 13, 2024 | Culture, Art | casabrutus.com

これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。水玉(ドット)と網目(ネット)、そしてかぼちゃのモチーフで知られる前衛アーティスト草間彌生が、自身の作品と人生を通して訴え続けたこととは。

草間彌生/前衛芸術家、小説家

全人類の生命力の輝きを見てほしい。

水玉(ドット)と網目(ネット)、そしてかぼちゃ。そのモチーフを見ただけで、あるアーティストの顔が思い浮かぶ——そう、草間彌生だ。今でこそ、世界中の人たちがこのアイコンと本人の存在を知っており、作品も世界中の美術館で見ることができる、「超」がつく有名な作家だが、その偉業は50年以上におよび闘い続けた結果である。

松本市の裕福な家に生まれた草間は、幼い頃より幻覚や幻聴に悩まされ、絵を描いている時だけが幸せな時間だった。10歳頃からすでに水玉と網目模様をモチーフとした絵を描いていたという。

絵を描いたり、オブジェを作ったりすることで、しだいに自分の心の居場所をみつけられるようになりました。

水玉を描くのは、そこに「無限」があるからだと草間はいう。網を描くのも同様だ。水玉も網もどんどん増殖していき、そのうち自己の存在を消滅させていくのだ。

水玉はひとつの生命であり、月も太陽も星も、数億粒の水玉のひとつなのです。これは私の大きな哲学です。

絵を描くことだけが生き甲斐の少女は、高校卒業後に京都の美術学校で絵の技法について学ぶが、旧態依然とした日本画壇に失望し、松本の実家に帰り、創作に没頭するようになる。そして、1957年、28歳で家族から大反対を受けながらも単身渡米する。当時のアメリカでは、ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングに代表される抽象表現主義が台頭し、60年代にはミニマルやポップアートといった多彩な芸術運動が花開く。食事にも困るほど困窮した日々を送っていた草間だが、創作に没頭し〈無限の網(インフィニティ・ネット)〉を描きあげて、ギャラリーで発表。当時は若手だったが、後にミニマル・アートの旗手として世界に名を馳せるドナルド・ジャッドの目に留まり、草間はニューヨークでの活動の基盤を固めた。

その後、草間は絵画や彫刻という枠を空間全体に広げ、自分自身にも水玉を施した「自己消滅(セルフ・オブリタレーション)」のインスタレーションを「ハプニング」という表現に発展させる。1960年代のフラワー・ムーブメントやベトナム反戦運動の高まりで彼女の活動は注目され、前衛芸術の女王と呼ばれるようになる。

その後活動が活発になったのは1990年代初頭である。1993年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館の個展で世界から注目を集めた。そして、2004年には森美術館で『クサマトリックス』展、2011年〜12年にはマドリッド、パリ、ロンドン、ニューヨークを巡回した『YAYOI KUSAMA』展等、世界中で草間の活動が知られることになる。

来歴だけ書くと、一躍スターダムにのしあがったように見える草間の活動だが、幼い頃から心の問題を抱えながらも、古い考え方に抗い続け、闘い続けてきたから今がある、と様々なインタビューでも強く語る。

しかし、同時に彼女は「芸術家だけが特に偉くぬきんでた人種なわけではない」ともいう。

どんな仕事に就いていようと、その人が今日よりも明日、明日よりも明後日と、自分の生命の輝きに一歩でも近づけたならば、虚飾と愚かさに満ちた社会のなかであっても、それは人間として生まれたことを示す、ひとつの立派な足跡となるのではないでしょうか。

と語る。ドキュメンタリーフィルム『わたし大好き』というのがあったように、草間は自己愛の強さも語られるが、だからといって他者を目にもかけなかったのかというと、それは異なるだろう。「人間」について、「生死」、「性」、「宇宙」、「平和」、そして「愛」について、草間は常に真剣に、全力で考え続け、作品を生み出したのだ。

数多の問題を抱え、混乱した世界の只中でも、
一人一人の深い願いを、歴史や文化、芸術の内に見いだすのです。
そこにある、全人類の生命力の輝きを見てほしい。

「私は人の影響を受けたことがありません。自分自身の芸術を信じているからです」「私はこの水玉一つで立ち向かってやる。これに一切を賭けて、歴史に反旗をひるがえすつもりでいた」など、自らの闘いをインタビューで振り返った自身初の新書。『水玉の履歴書』草間彌生著、集英社文庫 1,034円/1992年

くさま・やよい

1929年長野県生まれ。前衛芸術家、小説家。五七年渡米。画面全体に網目を描いたモノクローム絵画やソフト・スカルプチュアで高い評価を得る。60年代後半には多数のハプニングを行う。七三年帰国。美術作品の制作を続けながら、小説、詩集も発表。2011年から12年には大規模な回顧展がテート・モダン、ホイットニー美術館などで開かれた。