台湾でカラスミを食べながら考えていたのだけど,私は「へしこ」とか「ばくらい」とか「うるか」とか「このわた」とかそういうものばかりを私は好んで食べている.そして,私が作っているものは大抵文脈と珍味が必要なものがほとんどである.原理のゲームはそれが原理のゲームであるという文脈が必要でもある.(ゆえにポートフォリオが分散しているように見える→理解できるのは友だけ,ということになる.友よ,デジタルネイチャーは映像と物質の中間地点,質量への憧憬から至るコンヴィヴィアルなマタギドライヴはコミュニティだ.そして喜びの共有だ)